●日親聖人
応永14年~長享2年(1407年~1488年)久遠成院日親聖人(以下、日親と記す)上総国埴谷(はにや)(今の千葉県山武郡山武町埴谷)の埴谷氏一族に生まれ、幼少のとき在地の支配者埴谷左近将監(法名法義)の養子となり、埴谷氏が帰依していた中山法華経寺の僧日英の門に入り修行した。その後、中山門流期待の人物として九州総導師職に選れ、肥前国小城郡松尾(今の佐賀県小城町)の光勝寺に赴き、教団の指導にあたる。しかし日親は、不惜身命の折伏(悪法をくじき、屈服させること)と純正法華信仰をせまった為、領主千葉氏と法華経寺貫主日有との怒りをかい、ここを去らねばならなくなった。この日親の厳格な日蓮宗の信仰は、かれの生涯を通じて貫かれ、具体的には支配権力に対する諫暁(いさめ、さとすこと)という行動となって現れている。そのため、はげしい法難をたびたび蒙りもした。京都に戻った日親は休む間もなく諸国への伝道を展開し、そのかたわら、法華経によって国土を治めるべきことを説いた『立正治国論』を著し、将軍足利義教に対する諫暁を図った。結果は、怒った義教に捕まえられ、灼熱の鍋を冠せられたり、舌端を切られたりという過酷な拷問を受けることになる。永享12年(1440年)日親34歳の時であった。このことによって後世『鍋かぶり日親』と呼ばれるようになった。この投獄は、嘉吉元年(1441年)嘉吉の変によって義教が横死するまで続くが、赦免(罪を許すこと)後は京都に本法寺を再建し、ここを拠点として教団の整備を積極的に進めた。そして、30有余の寺院を建立しているそうです。
参考資料
『日蓮宗事典』
『日蓮辞典』
『広辞苑』