●養珠院(ようじゅいん)
天正5年~承応2年(1577~1653)。将軍徳川家康の側室お万の方のこと。紀伊家の祖頼宣、水戸家の祖頼房の生母。日蓮宗の熱心な信徒で徳川時代初期の大外護者、その功績は著しいものがある。上総大喜多城の正木左近大夫邦時のむすめ。のち伊豆の加殿(かどの)に移り、蔭山利広の養女になったと伝えられる。慶長3年(1598)養父母(母は法号智光院)を失って以来、仏僧を供養し孝養を尽くし、殊に身延山の心性院日遠に帰依した。慶長法難に連座して、日遠が安倍川原で死刑にされんとしたとき、家康を諫めて刑を免ぜんことを請い、また自ら葬服をととのえてこれに殉ぜんとした。家康はお万の方の熱誠と日遠の態度に感じ、処刑を許したのである。なお家康に仕えたのは17歳の頃と伝え、元和2年(1616)家康が75歳で亡くなると直ちに髪をおろし蓮華院(後に養珠院)と号した。その信仰の行跡は著しいものがあり、身延久遠寺・池上本門寺・玉沢妙法華寺・大野本遠寺・貞松蓮永寺・和歌山感応寺などを始めその他多くの諸寺に外護をつくした。なお頼房は母の追善菩提のため太田に蓮華寺を、頼宣は和歌山に養珠寺を建立。女人禁制とされた身延の七面山にはじめて登詣した女性としても知られる。承応2年(1653)8月21日江戸紀州邸にて逝去。77歳。大野本遠寺に葬られる。法号は養珠院妙紹日心大姉。
参考資料
『日蓮辞典』
他